自由と愛

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:910

自由

 マルテン・ルターはその著書『キリスト者の自由』の冒頭で次のように述べました。 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」

 この二つの文章は全く矛盾するように見えますが、主イエス。キリスト様の十字架の愛によって罪赦され、神様の子供とされたキリスト者の姿そのものを的確に描写しています。聖書の自由という概念と世界的にフランス革命以来主流になった人間中心主義(ヒューマニズム)の自由概念は基本的に違っています。後者は人間をあらゆる外面的な束縛から解放して、自分の欲しい事を実施できる状態を指します。経済的にも、文化的にも、政治的にも、社会的にも、自立して、独立になって、自分の夢を制限なしに行える状態を自由と言います。しかし、聖書的に言えば、その「自由」は何の自由もなく、自分の中にある欲望や好き勝手な感情の奴隷状態に過ぎません。いやもっとも酷い自分の中に住み着いている肉(神様から離れた罪深い性質)の奴隷状態です。極端なところではこの「自由」は人間を他の人の束縛からだけではなく、神様との関係からも解放しようとします。その結果として皮肉な事には悪魔の奴隷になってしまいます。

 聖書が謳っている自由はこの現代的な迷いの正反対と言っても言い過ぎではないのです。本当の自由は物理的な制限や社会的な規則などから解放する必要はありません。神様が与えて下さる自由は心の中に住み着いている罪からの自由です。それは何々からの自由より何々への自由です。神様の御言葉が心の鎖を真理の力で明るみに出して、イエス・キリスト様の十字架の愛の力で解放されて、罪赦されて、神様との関係が回復して、初めて人々や外面的な環境の制限の中にあっても神様との交わりの自由を経験して、外面的な束縛を越えて、人に対する愛の奉仕が可能になります。

 聖書の中に神様に結ばれた自由はよく結婚に例えられます。結婚はある意味では一番強い人間的な束縛の一つでしょう。離婚が増えている現代人は同姓やフリーセクスなどで、その束縛から自由になろうとしますが、かえって益々人間関係が複雑になって、自由どころか孤独が増えている一方です。しかし、愛のある結婚は束縛どころか素晴らしい解放の場です。相手を喜ばせて、相手の希望に答える所にこそ自由と喜びを得ます。

 フィンランドルーテル宣教会の35周年記念大会が2002年7月の初めにタンペレと言う町で行われました。日本から来られた安達賢二郎議長先生はそのメッセージの中にイエス・キリスト様への愛がその戒め(掟、命令)を守る事に明らかになると言う事を強調なさいました。私たちフィンランドのキリスト者にとってとても大切な強調だったと聞きながら感じました。なぜかと言うと、この国ではあの間違った自由概念の影響で、神様の愛から自発的に出てくる主の戒めを守る事をさえ間違って「律法主義」と言われるようになりました。具体的に主に対する行動(大宣教命令による伝道、道徳的に十戒を守ろうとする清い生き方や聖書の中に出る教会活動や個人生活に関する進めに従う言動)を心からの愛の表れではなく、無理やりにしなければならないクリスチャンたちの新しい束縛としてしか受け取れない風土が広がって来ました。

  確かに、主イエス・キリストの救いに預かったことのない人にとって聖書の中に出るキリスト者のための勧めは不可能な要求に過ぎません。死んだ人から生きている人間の行動要求すると同様ですが、主イエス・キリストの救いによって、罪の裁きから開放されて、聖霊による新しい命を頂いた、神様の交わりの自由の中に入れられた、生きたキリスト者にとって、主の命令は重荷ではなく、愛を表す具体的な道です。

  現代人間は愛を余りにも感情的なもののように受け取っているようです。感情が冷えたら、行動も消えます。しかし、聖書は逆の順序に近い近づき方をします。先に御言葉を通して主イエスキリストの御顔を仰ぎ見て、その中に新しく恵みを直接主から頂いて、主の御言葉の勧めを文字通りに受け入れて、それに従って、最後に感情的な喜びに達します。

  愛の出発点は自由です。しかしそれは主イエス・キリストから頂いてから、キリスト者は「すべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」

  主イエス・キリスト様から愛への自由を求めて、聖書を本気で守まもろうとする恵みを祈り求めましょう。