暗闇の中の光

  イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」… 民の祭司長たち、学者たち…らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。… ヘロデは… 彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」彼らは…出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。…その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。… そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」 (マタイ2:1-18)

クリスマスの音楽
 世界一綺麗な音楽はクリスマスのキャロルやクリスマス・オラトリオなどのようなものと言えるでしょう。小さな赤ちゃんが生まれることによって、心の深い所の喜びと優しさが湧いて来ます。11月に初めての孫が生まれて、この不思議な気持ちを実感して参りました。まして宇宙の創り主でおられる父なる神様の独り子が小さな赤ちゃんとしてお生まれになった事でそうでしょう。それにそれは私たち罪深い人間を救うためでした。この不思議な出来事で生まれた音楽が地上最高のものに違いないのでしょう。実はクリスマスの音楽は羊飼いたちの前に現れた天のみ使いたちの讃美から始まりました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と言う歌でした。だから教会のクリスマス音楽に天国からのメロディーが聞こえるのです。死と罪と絶望の暗闇に天国から光が入り込んだゆえに喜びと感謝の歌が生まれます。

 と言ってもクリスマス物語は決しておとぎ話のような美しいものだけではありません。11月の終わりの恐ろしい事件で私たちは、どうして自分も小さな子供の母親でありながら2歳の女の子を計画的に殺すことが出来るかと不思議に思っております。クリスマス物語を見るとその理由があまりにも明確に分かります。ヘロデ王は自分の地位を保つためにどんな残虐をも惜しまなかったのです。自分か自分の子供が王様になるために何処までも行く人間の罪深さは当時と今日少しも変らないのです。そしてその恐ろしい罪は私たち一人一人の心の中に潜んでいます。適当な環境に置かれたら、抑えきれなくなって、絶望的な行為を生みます。妬みが怒りに、怒りが憎しみに、憎しみが恨みに、恨みが憂鬱に、憂鬱が絶望に、絶望が犯罪か自殺にと言う悪循環のどん底まで何方でも行けます。自分のうちに住み着いている罪を認めないとこの悪循環に追い込まれやすいのです。そして罪が私より強いのです。たとえ殺人と言う行為に至らなくても、私は大丈夫と言う傲慢こそ罪の力の現れです。人間は自分を罪と死の現実から救うことの出来ない惨めな存在です。

 しかし、このようなどうしようもない人間を救う為にイエス・キリスト様が人間として生まれました。それは私たちの罪を赦すためでした。又罪の支配から私たちを解放するためです。又罪の恐ろしい結果である死から私たちを甦らせるためです。イエス・キリスト様があなたを愛して、あなたを助けて、あなたを解放するためにお生まれになりました。それにもかかわらず、多くの人はイエス様を受け入れようとしないだけではなく、イエス様を殺そうとしました。それはもう赤ちゃんの時からずっと十字架まで続いた現実でありました。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

 未だにイエス様を多くの人が拒否しています。なぜかと言うと、自分で自分の事を十分支配できると思っているからです。しかし、謙遜して、自分が自分に住み着いている罪に勝てないことを認めて、祈りの中にあなたの罪のために死んで、三日目に復活して下さったイエス様に「助けて、救って下さい」と叫んで下さい。そうすれば、イエス様は最も素晴らしいクリスマス・プレゼントとして罪の赦しと新しい、永遠に続く命を与えて下さいます。

東の国の博士たち
 東の国の博士たちはその当時に最高の学問の持ち主でした。彼らは本当のクリスマスを経験するには必要な謙遜を持っていました。即ち人間の最高の知識でも知恵でも心の根本的な問題の解決はあり得ないという事を認めていたからです。永遠の救い、死からの開放、罪に勝つ力を得るために救いをもたらす王様に会って、その命に触れる必要を感じていたのです。彼らの日常の学問的な営み、即ち天文学的な観察の中に、神様は彼らに啓示を与えて下さいました。星空をお創りになった神様は星を通して彼らを招いて下さいました。神様の招きの場はあなたの日常生活の中に行われます。細い声であっても、神様があなたの心に語るときに注意して、与えられたヒントにしたがって行動に出た方が知恵です。星の導きがその内に聖書のみ言葉の啓示による導きに代りました。あなたの道のりが遠いかもしれませんが、神様の招きに従ったら、かならず主イエス・キリスト様への道が開かれます。

クリスマス・プレゼント
 博士たちのイエス様に奉げるクリスマス・プレゼントは不思議なものでした。黄金、乳香、没薬でした。黄金は王様の印ですから、イエス様の前にひれ伏して拝んだ事で彼らはイエス様を自分の王として認めました。乳香は祈りを奉げる時に使う物質ですから、彼らはイエス様を祈りの対象になる神様として認めました。没薬は死体が腐らないように使う薬品で、それを奉げることで、彼らはイエス様が彼らのために死んで、又腐らないうちに甦る救い主であることを表しました。

 イエス様に出会ってから神様は彼らに語りだして、帰りの道などについて導きを与えて下さいました。イエス様に出会うと、あなたも神様のみ声を聖書を通して聴いて導かれるようになります。博士たちは素晴らしい良い人々だったから救われた訳ではありません。彼らは自分が救いを必要とする事を認めたから救いに導かれました。

泣いているお母さんたち
 しかし、ヘロデ王の憎しみで殺された慰めのないお母さんたちは一体どうなったでしょうか。
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

 クリスマスの辺りの悲劇は並みならぬものでした。実はこの旧約聖書からの引用を少し続けて読めば答えが出てきます:
主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。(エレミヤ書31:16-17

 最終的な敵である死の国から帰るのは甦りを意味します。イエス様が最終的に全て殺された子供たちをも甦らせて、全ての被害者に正しい裁きをもたらせる再臨のキリストとして帰って下さる約束をなさいました。その時に全ての罪が取り除かれて、天のみ国が始まります。
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(1ペテロ3:13) 

 その時こそ全ての涙がクリスマスの喜びの歌に代わります。この最終的なキリストの勝利を待ち望みながら、博士たちのように謙遜に主を求めようではありませんか。そして、キリストの愛に触れると心からクリスマスの讃美を歌おうではありませんか。

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