年の初め

  「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。この月の十四日、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、主への祭りとして祝わなければならない。」(出エジプト記12:2〜14の抜粋)

 日本にちょうど30年前に初めて来た時は正月の前でした。一年の一番寒い時期を新春と言われた事を不思議に思いました。又殆どの家の玄関に飾ってあった注連縄(しめ縄)の意味はなんだろうかとも考えた覚えがあります。

 何年か後で台湾を訪れる機会があって、それはたまたま旧正月の時に当たりました。(2月の終わりごろでした。)やはり台湾はその時に田植えの時期で、まさに新春でした。それだけはなく、中国の習慣に従って、ほぼ全ての家の入り口に真っ赤な布がかもいにつけていたではないかと驚きました。赤は当然お祝いの色で、しめ縄でみかんがその色の代わりでしょう。日本と中国が同じ文化圏に属する事を実感致しました。

 しかし、それよりも上記の出エジプトの箇所を思い出して、益々驚きました。イスラエル人の年の始まりはやはり旧正月頃でした。それに初めの月の14日と15日の間の夜は過ぎ越しの祭りです。(日本の小正月に当たります。)かもいにつけられる血の赤とお祝いの赤は関係がないはずはありません。もしかして、日本の正月の由来も出エジプトの出来事と深い関わりがあるかもしれません。

 いずれにいたしましても、上記の箇所は私たちにとって大切な事を語っています。新しい年の初めを恐れで迎えるのではなく、お祝いで迎えるべきです。この新しい年にどんな事が起こるか分からないで、心配しがちな私たちに神様は安心出来る場所を提供して下さるからです。

 その安心できる場は今年恐ろしい事が起こらないと言う楽観主義的な自己だましのようなものではありません。実際神様のみ怒りを招いたエジプトにとってイスラエルの開放の時は恐ろしい裁きの時になりました。

 しかし、子羊の血で塗られた門柱とかもいの家の中にいたイスラエル人に神様の裁きはありませんでした。イスラエル人が特にいい人々だったから、裁きが過ぎ去った訳ではありませんでした。神様が定めて下さった安全な場にいたからです。神様のみ言葉を信じ、受け入れて、従った所は安心できる場でした。神様が定めて下さった子羊の血は救いの場でした。

 1400年後でイエス・キリスト様はその過ぎ越しの祭りの最も深い意味を示して下さいました。人々が奉げた子羊よりも神様ご自身が奉げられた子羊はイエス・キリスト御自身です。イエス様の十字架の上で奉げられた血潮と御体は新しい年に入った私たちにとって安心できる場です。この世の中にどんな恐ろしい事が起こっても、主イエス・キリストの十字架の血によって罪赦された人は安心できるだけではなく、心からお祝いして新しい年を迎える事が出来ます。どんな事が起こっても、神様に愛されて、永遠の救いの持ち主として新しい年に進む事が許させます。

 イエス・キリストの十字架の許で罪を認めて、全ての罪が赦された者には今年も恵みの年、主の祝福された年になります。たとい、今年の終わりをこの地上でもう見る事が出来なくても、主の永遠の新春に、天国に行ける確信もイエス様の十字架の真っ赤なしめ縄で囲まれた心にずっと保たれます。

 キリスト教の専門用語で言えば、救われた人の安心できる場は「神様に義と認められた」事です。「義」と言う字は不思議です。「羊の下にいる我」と言うのは十字架で私たちの罪の為に苦しんで、血潮を流して下さった、神の子羊でおられるイエス・キリストの下に罪が赦された人は義がプレセントされて、安心出来きる場にずっと置かれています。その事を感謝して、お祝いするから新しい年のスタートをきりましょう。
ですから、「この日は、主への祭りとして祝わなければならない。」