内面と出会い

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火挟みで取った、燃え盛る炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」すると仰せられた。「行って、この民に言え。」 (イザヤ書619節)

天の王座
 
王様が死んで、敵が近付いてきて、指導者のなかった民は混乱状態で、暴力がはびこって、地が不法に満ちていました。それにも関わらず、御使いたちは天の神殿で「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちている」と主に賛美をしていました。それは、地が混沌たる状態であっても、天から神様は依然として支配して、全てをコントロールしておられます。御使い達は、イエス様の再臨後に全地にも見える形で神様の栄光が満ちる日がやってくると知っていたのです。全知全能の神様の聖さはそれを成し遂げるでしょう。だから、将来の勝利を誉め讃えていたのです。クリスチャンも歴史の最後を知ることが出来るから、もっとも激しい戦いの中にも神様の最終的な勝利を賛美できる人です。なぜなら、若いイザヤと同じ経験を持つからです。

心の時代
心の時代と言うカチフレーズがよく言われるようになってからもう久しいです。物質的なことで心が満たされないと悟った日本人が宗教に新たな関心を持ち出しました。聖書から見ると、神様によって創られた人間は命の源である神様の交わりの中に初めて心が満たされます。罪を犯して、神様から離れて行った人間が、水の中から取られた魚のように、自分の本当の居場所を失って、苦しんでいます。しかし神様は不満で苦しんでいる人間を愛して、ご自分の交わりに戻るために、イエス・キリストをこの地上に送って下さいました。イエス・キリスト様は十字架の上で人間の罪の処罰を私たちに代わって受けて下さいました。神様の御前で謙遜になって、神様から離れて行った事を認めて、十字架の愛の故に赦しを願うならば、全ての罪が赦され、心が清められ、神様御自身の命につながる事が出見ます。そうすれば心が満ち足ります。

しかし、このような飢え渇きに、悪魔もその巧みな罠をかけようとしています。それは初めの人間を惑わした誘惑と同じです。神様の客観的な御言葉を聞いて従う必要はないと言うことです。その代わりに目を自分の心に向けて、瞑想、ヨガ、神秘体験、シャマニズム、オッカルト、霊媒などをつかって、自分自身のうちに潜んでいる可能性と神性とを見いだして、そうしたら「今まで見えなかったものが見えるようになりますし、あなたがたが神様のようになって、善悪を知ることができるようになると」とささやいています。(創世記35節)このささやきに耳を傾けて、大勢の人々が新新宗教に走ったりして、そして悪魔の約束通り不思議な体験をします。しかし結局心の飢え渇きに答えが得られません。得ようとして益々深い体験を求めて、常識を超えて、恐ろしい始末に発展する事もあります。飢え渇きが強ければ強いほど惑わされる恐れもあります。

内面の迷い
  何年か前にRabi Maharaji(ラビ・マハラジ)と言う著名な先生に会いました。彼は以前ヒンズ教のグルとして、ヨカ瞑想で恍惚状態やトランス状態に入ったりして、天国のようなところや地獄のようなところをさまよったり、恐ろしいヒンズ教の神々に会ったりしました。瞑想で一時的に乱れた心に平安も得たりしました。しかし、現実に戻ったら自分の心の憎しみ、恨み、殺意、高ぶり、あらゆる欲が以前と少しも変わっていなかったそうです。しかし、イエス様に出会ったある友達に誘われてキリスト教会に行って、始めての集会で、聖書の御言葉を通して近付いて下さったイエス様に出会って、全てが変わりました。全ての汚れや罪が赦されて、イエス様が心の王座に座って下さって、心から愛と喜びと平安が沸き出しました。宗教的な罪の奴隷が解放されました。以前の凄い体験の理由として次の説明をしてくれました。瞑想でほぼ停止された脳の中に悪霊が自由に影響を及ぼすことが出来るということです。

イザヤの救いの体験
  しかし、若いイザヤの体験に戻りましょう。神様は彼の目を開いて下さって、見えない、けれども実際に存在する天国と神様の聖なる現実に向けて下さいました。それは内面的な体験ではなく、彼の外に向かっての経験でした。そこで現実離れの一時的な安心感よりも自分の心と唇の恐ろしい汚れと罪深さを神様の栄光の光に照らし合わせてみると、「わざわいだ。私は滅びてしまいます。私は汚れた者で、汚れた民といっしょにいるのに、全能の主でおられる主を、この目で見たのです」と嘆く他なにもありませんでした。罪の恐ろしさは地獄を見るところではなく、神様の聖さを見るところで分かりました。

 大滝の音のような御使いたちの賛美の中におられる神様の耳はこのイザヤの嘆き声をすぐにも聞き取って下さいました。御使いの一人は、イエス様の十字架の前触れとして祭壇の上からの燃えている炭を取って、イザヤの口を触って、完全な赦しと神様との交わりの回復を与えて下さいました。神様に対する恐怖は素晴らしい永遠の救いの安心感に代わりました。神様に見捨てられるどころか、神様の使節としての新しい使命まで与えられました。それは、イザヤの救いの体験でした。彼のそとがわから心の中まで与えられた神様の永遠のプレゼントでした。

外から中へ
 心に豊かな命を得るのは内面的な宗教体験では得られません。自分自身の中に罪以外に何もない事を認めて、外側即ち聖書を通して語って下さるイエス・キリストに目を向けて、助けを求める事で、実際の歴史の出来事によって行われた十字架の愛によって、神様の下に帰る道が今も開いています。何方でもその道を通れば、救いが与えられて、心を満たす命に預かります。それは人格的な触れ合いによるものです。二人の愛し合っている人の愛という体験は決して自分の心の問題だけではありません。現実に存在する相手に触れて、心の気持ちが湧いて来ます。キリストによる救いも同じです。イエス様に出会うことです。あなたもこのイエス様を求めようではありませんか。


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