ネヘミヤ ー 霊的な指導者とリバイバルの器旧約聖書のネヘミヤ記の学び

入門

ネヘミヤ記はゼルバベルの指導で始められたが途中で中断されたエルサレムの城壁の建設の完成の記録です。しかし、同時に多くの困難の中に行われたネヘミアの忠実な働きの描写でもあります。その目的はバビロンから帰って来た小さなユダヤ人の群れに安全な場所を提供することだけではありませんでした。そのもっとも大切な目標は、民を悔い改めに導くことによって神様の掟を守ることによって、その群れに霊的に安全な場を目指す所に有りました。

人物
ネヘミヤはメード・ペルシャ王国のアルタシャスタ王(464ー24)の献酌官であった。献酌官とはトップレベルの王様の安全を確保するトップレベルの警備員長でした。王様の飲み物や食べ物に毒が入らないように対策をとる責任がありました。王室の中で成功して高い地位にまで昇ることが出来た理由は彼の生まれつきの性質と人柄にあったと言えるでしょう。彼は物事を判断するには極めて鋭い頭をもって、自発的な行動力の持ち主でした。王様の安全を守らなければならない仕事上細かいところまで総てを把握して、起こりうる事を見極めて、対策を立てることの出来る才能をもっていました。彼の人柄のこれらの事はネヘミヤ記に明確に記録されています。

賜物
ネヘミヤは生まれつきの多くの賜物をもっていたから、神様が彼の為に計画なさった霊的な指導者としての使命を全うするための備えを持っていました。神様が私達に生まれる時に与えてくださった性質や能力は神様の栄光の為に用いるべきものです。いくら良い神学校で学んでも、いくら素晴らしい教育を受けても、人間は偉大な説教者や霊的な指導者になれません。生まれる時からそのための賜物を持たなければなりません。

パウロも同じ原則のよい実例です。神様は彼を生まれる前から選んで下さって、福音をユダヤ文化からギリシャ文化の中に移すための使命を成し遂げる為の賜物を与えてくださいました。その賜物が清められて、その目的の為に用いられる為にパウロが生まれ変わらなければなりませんでした。しかし私達の生まれつきの賜物は生まれ変わる時に与えられません。聖霊様が与えて下さる特別な聖霊の賜物も生まれつきの賜物に代るものではなくて、それらを補っているものです。生まれつきの賜物を与えてくださる主と霊的な賜物を与えてくださる主は同じ神様ですから、それらの賜物を対立させるのは意味の無いものです。両方ともを用いるには一番大切なものは清められることです。聖めとは人間が先ず自分自身の心を、そして持つ賜物を主の御用のために捧げることで、自分の名誉ではなく、神様の栄光を求める事です。

使命
神様が私達をどのように用いて下さるかと思い巡らせる時に、自分の生まれつきの賜物を無視してはいけません。私達は自分の持っている賜物を(霊的なものも含めて)よく知らない場合があります。他のクリスチャンの意見を聞くのが大切です。その他に一時的に出来るだけ多くの種類の働きや伝道に参加した方がいいと思います。その中に自分に向いていると向いていない事柄がその内に明らかになります。

ただし、神様は必ず我らの強いところだけを用いるとは限りません。私達の弱いところをも通して御自分の働きを進められる神様です。私達が一方的に神様に寄りすがる為です。又、自分の弱さを補う教会の他のクリスチャンの賜物が私達の奉仕にも必要だと悟らせる為です。一番立派な霊的な指導者も教会の多くの方々の賜物を無視して働くことが出来ません。

ネヘミヤは王室の成功した官僚でありながら、小数民族ユダヤ人に属するその背後を決して忘れることはありませんでした。しかし、それよりも彼と神様の個人的な関係がその行動を決定的に支配しました。神様に祈りながら使命を求めたから、はっきりした答えも与えられました。エルサレムの城壁を建てるのはネヘミヤのもっとも根本的な使命のシンボルに過ぎませんでした。民を神様との正しい関係に戻すのは彼の究極的な使命でした。しかし、それを達成する過程に大いに祭司エズラと協力して来ました。霊的な指導者は決して独裁者か個人主義者であってはいけません。指導される人々との協力と同時に他の指導者との協力によらなければなりません。

歴史的な背景
150年前に(紀元前587年に)エルサレムはバビロン軍によって破壊されました。それは、イスラエルの民が徹底的に神様に背を向けて、偶像礼拝やあらゆる罪に走って来たことに対する神様の正しい裁きでした。ペルシャのキロス王は幾つかのユダヤ人のグループがエルサレムに帰る事をB.C.538年に許しました。神殿が建てられて、B.C.516年に献堂式が行われましたが、ユダヤ人は他の民族グループの圧力の元で惨めで貧乏な生活を強いられました。

ネヘミヤの使命はエルサレムを防衛できる状態にさせることでした。ネヘミヤはB.C.445年に町にやって来て、城壁の建設が始まりました。王様はネヘミヤをユダ地方の総督に任命しました。二期にわたってその任務を果たしました。先ずB.C.445ー432年で、そして首都スサンでの短い滞在の後B.C.431ー409年でした。

私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。(1:2)

訓練
ユダヤ人で、その捕囚の身から解かれて上ったユダヤ人の中から、エズラの指導で又新しいエルサレムとユダに帰る波が起こりました。その時から12年後の事です。ネヘミヤは霊的な指導者になるための訓練の最中でした。神様がネヘミヤの為に選んでくださった使命は生まれつきの賜物だけで出来るものでは有りませんでした。賜物の他に長くて徹底的な訓練と経験が必要でした。霊的な指導者として、又政府代表の総督として働くために首都スサンの王室やその他の政府関係の仕事や人脈における複雑な事柄を徹底的に身につける必要が有りました。王室の官僚達の競争や妬みや権力に対する野心にぶつかりました。又管理仕事に必要な知識や知恵を習って来ました。しかし、その上に神様は彼を聖書の徹底的な知識まで導いてくださいました。

献酌官としてペルシャの王様と密接的な関係にありながら、その兄弟であるユダヤ人の運命について深い関心を持ちました。ですから、エルサレムから首都に来た人々からエルサレムの出来事や実態を詳しく聞きました。受けた情報は余りにも憂鬱的で、ネヘミヤは悲しみを覚えながらその重荷を祈りの中に神様に語りだしました。

祈りの人
ネヘミヤ記の中に9つの祈りが記録されています。特に1章のお祈りは永久性に富んでいます。以前ダニエルがバビロンに引いて行った捕囚の中で祈ったお祈り(ダニエル書9章)に似ているところが沢山あります。ネヘミヤの祈りは先ず罪の告白で始まります。何の弁明も無くユダヤの民の罪を自分の罪として告白します。そして、王様の前に出て、神様がその対話の中に王様の心をネヘミヤの願いを受けてくれるように神様に訴えました。ネヘミヤのエルサレムについての悲しみは同情のレベルに留まらなくて、エルサレムに帰られたユダヤ人と町の状態を助けるための行為に出る用意がありました。しかし、神様が道を開いて下さらないと何も出来ないとも分かりました。

ネヘミヤの祈りは凄い感情的なショックの中から出ました。エルサレムの悲惨な状態のニュースで感情的な嵐が起こって、泣いて、断食して、悲しみながら祈りつづけました。悲惨な状態を見聞きしながらなにも感じない冷静さは決して信仰的な態度ではありません。もし私達が酷い罪がはびこっている中でなにも感じないならば、先ず現実を正しく見ることの出来る目を神様から祈る必要があります。聖霊様が私達の頑な心を砕いて、無関心の罪から悔い改める恵みを祈らなければなりません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:5)信仰が無ければ祈ることが出来ません。ネヘミヤの信仰は神様の啓示即ち聖書と神様の御業を知ることに基づきました。偉大で恐れるべき神様がどのようにその御言葉通りになさって来られたか知っていました。信仰の高さは神様の偉大さを知る事に比例しています。信仰は神様を知るところから始まります。信仰は感情ではありません。神様を知って、その御言葉に答える応答であり、従順であります。神様は何でも出来ますし、明確な御心を持っておられます。

祈りのプロセス
ネヘミヤの祈りはお願いでも、罪の告白でも賛美でも始まりませんでした。目を神様に向かう事で始まりました:

「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。」(1:5)


神様の存在を思い起こすことは彼の内に信仰と勇気を起こしました。しかし、恐るべき大いなる神様を見ることこそから懺悔と罪の告白が生まれました。自分と民は神様の契約を破って、罪に対して神様からの苦しみを正しく受けた事を認めました。神様の御霊が私達の生き方の罪を指摘なさる働きに敏感であるべきです。

ネヘミヤはその民と先祖の罪を自分自身が犯したかのような罪として認めました。聖書は私達の個人的な罪の責任を問いながら、共同体としての私達の罪の責任も問います。個人主義的に自分の家族や親戚や民や国民の罪の責任から逃げる事は聖書的には成り立ちません。主の祈りも共同体の祈りです、個人的なレベルだけに留まりません。ネヘミヤは一般的な罪の告白に留まらなくて、詳しく神様の御心に逆らった罪を並べて、赦しを願いました。

祈りが進むと懺悔は神様とその約束に訴える事に代わって行きます。ネヘミヤはその民に神様の哀れみを訴えます。アブラハムもモーセもエレミヤもダニエルもパウロも皆同じ様に民の為に執り成しの祈りをしました。皆自分の個人的な運命を犠牲にしても民の為に訴えました。神様の御名が崇められるように、神様の真理と恵みが人々の人生の中に勝利を得るように祈りました。モーセは大胆に次のようにも祈りました:

「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト記32:3132)

執り成しの祈りの生まれる条件は神様の栄光への熱意、隣人への愛、自分自身の運命にたいする無関心です。それらは神様とその約束を知るところから生まれます。

ネヘミヤの願いは祈りの他の部分に比べて極めてちっぽけなもののように感じるかも知れません:
「どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人(王様)の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

ネヘミヤが指す「きょう」という日は祈りの戦いが始まってからやく4ヶ月後の時でした。祈りは神様から始まって、私達の内に行われる聖霊の働きです。祈りは対話でもあります。ネヘミヤの祈りは神様の言い分を聞く所に彼を導きました:

「ネヘミヤよ。あなたがエルサレムとそのために祈ることは結構な事ですが、これから王様の所に行ってエルサレムの城壁を建てる許可を頼むのはあなたのすべき事です。」

ネヘミヤはこのような願いをするのはいかに危険かと分かっていました。官僚としての地位だけではなく、自分の命さえ危うくする所でした。それだけではなく、エルサレムの安全と民を霊的な目覚めに導く働きも全部王様の返事にかかっていました。

伝道と海外宣教との出発点は国民や民族や町や村や個人が神様との関係に立っていて、それらの悲しみと罪を自分の問題として認識して、そして神様の御心に従う助けを実行する決心からのものです。

そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた。(2:45)

祈りと行動
ネヘミヤは非常に具体的な行為をとりました。祈りは具体的な営みなのです。何故かと言うとそれは究極的な本当の力まで届いて、神様の力に与るからです。同時に願われた事柄と調和の取れた行為に促すものです。ネヘミヤは先ず神様の助けを求めて、そして機会が与えられると王様に何もかも正直に話しました。

エルサレムと民の惨めな状態から生まれたネヘミヤの悲しみは王様からも隠し切れない程深いものでした。王様が彼の悲しみの原因を聞くとネヘミヤは恐れで満たされましたが、主と祈るところからそこに来ていたから、恐れに打ち勝って、素直にその悲しみの理由を王様に語って、エルサレムにその兄弟を助けに行く許可を頼みました。王様が賛同して、ネヘミヤはエルサレムに出発しました。

どんな目標を得ようとしても、もっとも大切な原点は祈りなのです。しかし他の事も必要です。神様は私達の協力を待って、同労者として私達をも用いろうとしておられます。神様は王様の心に語ろうとなさいましたが、ネヘミヤが神様の口として言うべきことを言わなければなりませんでした。神様は私達の祈りに答えようとなさる時に、私達は聖霊の光で照らされた理性に基づく行為をとらなければなりません。

行動派のネヘミヤは必要な材料の確保の為の措置をとったり、それぞれの地方を通るための許可を前もって手に入れたり、城壁を建てるための詳しい計画を立てたり、エルサレムの住民を動機つけたり、偉大な仕事を具体的に実行できる部分に分けたりしました。敬虔深い祈りの人ネヘミヤは能率的な活発な指導者に様代わります。目標に達成するためにちゃんとした組織を作らなければなりませんでした。組織化は聖書的なものです。色々の賜物と人的資源の能率の高い使用の為に組織は必要です。組織によって命を作ることは出来ませんが、命がその目標を達成するために組織されなければなりません。神様は混乱の神様ではなく秩序の神様です。自然界に神様の創造の素晴らしい組織が見えるように聖霊様はその働きが教会の中で良い順序で行われる事を望んでおられます。

未信者との関係
伝道をしようとしたら遅かれ早かれノンクリスチャンの当局と関らなければならない場面にあいます。その時に私達の申請やら願いは必ずしも通じるとは限らないのです。一つ覚えなければならない事があります。もし神様が「はい」とおっしゃるならば、どんな当局でも最終的に「いいえ」とは言えません。だからノンクリスチャンと信頼関係を建てようとする時に神様の方に祈りの溜め息を向けるべきです。ネヘミヤはそのお願いを王様に述べる時に総ての質問に対してはっきりした答えを言う事が出来たのは前から祈りの内に詳しい所までの計画を立てていたからです。

計画を立てる作業
計画とはこれから何をするかと言う事だけでは十分ではありません。実行する過程に直面する困難や障害を計算に入れて、神様に祈りながら前もってその対策を立てる事です。しかし、その計画が私達から出たものなのか、それとも神様から与えられたものなのかはもっとも大切な事です。もし私達の求める目標が神様の御心に逆らうならば、果たしてそいう計画を実行に移しても、それで一体何の意味のある結果を得るでしょうか。

祈りの内に計画を立てるには時間が要ります。先ず自分の罪を徹底的に神様に取り扱って頂く必要があります。そして、聖霊様が私達の視野を広げて行くプロセスが問われます。ネヘミヤの場合祈りの準備は4ヶ月間のものでしたが、決して無駄な時間では有りませんでした。王様が総ての願いに賛同した理由はネヘミヤが神様の計画に添う提案を祈りの内に分かって来て、それに従う決心もして来たからです。神様の御手がネヘミヤの上にあったからです。

エルサレムに着くと先ず町を回って城壁の破壊状態を詳しく調べました。城壁を建てる作業は技術的な問題も人間関係に関する問題も含めました。神様の御前で祈る事と、調査して情報を集める事は互いに矛盾することではありません。やはり、ネヘミヤが自分の目で実態を調べる必要がありました。その結果問題の数々は以前と思ったより多いという事が分かりましたが、その分信仰の必要性もはっきりして来ました。信仰による歩みとは問題の解決を神様から求める生き方です。

城壁の調査はこっそり人目を避けて夜に行われました。使命を全うする準備で人目に見せてはいけない段階もあります。早過ぎて計画を発表してそれをだめにする場合があります。何故かというと未だ計画が完成してない時に人に理解してもらえなくて、協力も得られない場合があります。又計画だけではなく、それを受け入れるために人々の動機づけや心の準備も必要です。霊的な指導者の働きには人には見えなくて秘密的な段階もあります。

同一と動員
エルサレムの住民にはやる気はまず少しもありませんでした。民は憂鬱的な雰囲気の中に失望の虜になっていました。ネヘミヤは動員問題を現実的に受け止めました。人々が新しい挑戦にどう反応するか経験から学んで来ていたからです。指導者達に、祭司達にまた他のユダヤ人達に素直に、知恵を持って、神様を恐れかしこむ姿勢を保ちながら、ストレートに、簡単明瞭に話し掛けました。ネヘミヤはその動員演説の中に全面的に町の住民の一人としての姿勢を現して、直面している現実がいかに彼らにとって危険かとはっきりさせて、具体的に何をすべきかを訴えて、最後に個人的な証しで人々を励ましました。

ネヘミヤは自分自身を町の一人として見て、決して外から来た一時的な援助を高いところから与えるような姿勢をとりませんでした。自分も城壁を具体的に建てるつもりのある気持ちを皆に伝えました。自分を手本にして、彼らを同じ働きに招きました。

危険を見る事
ネヘミヤにはその時の状況が如何に危険で困難に満ちたかよく分かりました。困難を軽視する事によって何のよい事も生まれません。指導者の責任は働きに参加する人々に自分が知ってる事を知らせる事です。情報提供は愛の現れです。働きを妨げる事は困難を見るところではなく、持っている可能性や能力や資源などを見落とすところにあります。困難に直面しながらも進もうとする指導者そのものは潜在力で動力です。人々はもっとも理想的なプログラムにも挑戦的なスローガンにも従わなくて、彼らを励まして、又以前進もうともしなかった目標を達成できる希望を彼らに提供する指導者に従っていきます。神様から頂いた希望のビジョンは人々に分かち与えなければなりません。指導者達が動きだしたら希望が沸いて来ます。

ネヘミヤはユダヤ人達を行動に招いて、個人的な証しで彼らを励ましてくれました。他のクリスチャンを励ますには一番効果的な方法は自分自身の人生の中に経験した神様の御業の証しです。

彼の次にエリコの人々が建て、その次にイムリの子ザクルが建てた。 そのあとに、ベニヤミンとハシュブが、彼らの家に面する所を修理した。そのあとに、... (3:2223)

組織化
3章の中に「その次に」と言う表現は15回、「そのあとに」は16回出て来ます。エルサレムの城壁建築が如何に統一的に組織されたかを物語っています。それぞれの働き手のグループに建てる範囲が定められて、互いの部分を継ぎ合わせて全城壁が完成されました。それぞれのグループの地面も違って材料を運ぶ環境も違いましたが、働きを一つにしたのは城壁そのものでした。総てのグループにその仕事を完成する為に自由が与えられましたが、皆は城壁を完成しようと言う一つの志がありました。

それぞれの違う働きグループは違っていても目指す目標は一つであったから互いに違う豊かさの中に一致がありました。他の働きグループを無視する分派心がありませんでした。しかし、それは才能ある霊的な指導者ネヘミヤの指導の元に行われた組織化の結果でした。聖書的な原則から見ると日本で多くの教団、教会、パラミニストリー、ミッションなどがあるのは別に問題ではありません。大切なのはそれらの諸団体が一つの城壁を建てている共通の意識なのです。あるところに働き人が集中して、他の所には全く働き人が無いと言う、偏った伝道パターンを避けるために互いに協力し合って情報を交換しながら、世界伝道の目標を目指さなければなりません。それは一つの大きな組織を作ると言う形で必ずしも達成できるとは思いません。かえって、多くの小さい細胞のような教会やその他の働き単位でネットワークを作って、情報交換を深めながら、主からの大宣教命令に従う形が望ましいと思います。そうすれば、地理的にバランスのある伝道だけではなく、同じ地域に住んでいる、違う人間グループにも対応が出来ますから。

共通の目標意識
よい霊的な指導者はワークホリクではありません。勤勉に働きますが、働きの奴隷ではありません。働く事を恐れませんが、働きを分担する事も恐れません。働きは決まった目標に達成するための手段に過ぎません。その価値はその形や一般的な評価によらないで、目標達成から見たら必要かどうかによって決まります。ネヘミヤの働きの目標は城壁を防衛に役に立つ状態にさせる事でした。私達が働きの目標を見落とすと働きの質やそこから払われる月給が妬みあいと争いの種に変わってしまいます。

ネヘミヤは働き人達を少なくとも39のグループに分けました。働きを組織する事も働きの一種です。総ての所に働きは同じように進んだ訳ではありませんでした。ある所にやりやすかったがある所に大変困難でした。しかし、総ての所に働き人が必要でした。働き人も違っていました。祭司もあれば、レビ人もあり、神殿の奉仕者もあり、金細工師もあれば、商売人もあり、社長もあれば、農業夫もあり、召使もありました。多くの人は家族単位で働きました。一人一人はその責任範囲を知って、働きに着手しました。しかし、地位の高い人々の内に働きに参加したくない人がいました。(3:5)この問題に教会の中にも直面します。

指導者の使命は全体を見て、総ての部分の働きが全うされるのを管理することです。仕事の責任分担がはっきりしない事はよくある間違いです。指導者が一人で総てを支配しようとする野心や他の人を信用できない高ぶりが背後にあります。しかし、仕事と責任を分担しない指導者は福音伝道の邪魔者です。

熱さの中に先頭に立つ指導者
責任分担の一つよくある問題は指導者が嫌な仕事を他の人々にさせる事です。しかし、指導者が他の人に与えるどんな仕事をも自分でもする用意がなければなりません。ネヘミヤは他の人々と同様に石を運んだり、砂利をスコップで除いたり、城壁の建設のあらゆる仕事をしました。皆と同じ立場にありながら、その外に働き人の世話もしました。

良い指導のもとで、意味のある仕事を楽しくて、熱心に、又他の人々と調和をもってすることが出来ます。民は心から働きました。大いにネヘミヤの姿勢に励まされたからです。皆と全く同じ汗をかいたからです。しかし、それだけではなく、他の人の長所や特別な技術能力も見分ける事が出来ました。指導者が他の働き人より優れる必要はありませんが、他の人の長所を見て、それを評価出来なければなりません。

行動と目標
働く時間は朝の明け方から夜の暗い時まで続きました。(4:21) 外側から反対がありましたから、武器を身につけて働かなければならない悪条件の中の苦労でした。霊的な体験は労働に代るものではありません。祈りと筋肉はとてもよい組み合わせです。しかし、その両方ともが同じ目標を目指さなければなりません。働きと活動の量は霊性の量りではありません。教会の中に目標から見たら全く要らない活動があり過ぎます。活動は意味のある働きとは限りませんが、働きは主にある活動で、主から頂いた目標を全うするためのものです。

自己犠牲的な勤勉さ
ネヘミヤは自分自身にたいして甘い態度をとりませんでした。この頃の台詞のように「自分に時間を与えなかった」のです。犠牲的に働きました。健康とよい気分は目的ではありません。主のために仕事をするために与えられたものです。そのために健康を保たなければなりません。働きの多い事そのものは燃えつき症候(バーンウト)を起こしません。働きが意味の無いものとして感じ、その分担が正しく行われていない為に人間関係のトラブルが生じるときに初めて疲れ果てて、燃え切って、バーンアウトになります。働きそのものは過労死をさせません。しかしストレスは人を殺します。

心の状態が全くちがっていて、教会の皆の前にりっぱなクリスチャンの顔をする霊的なネズミ籠は破壊的な状態です。ワークホリックにとって働く事は信仰の現れではなく、心の平安を得ようとする努力にすぎません。自分の働きで神様の前に認めてもらおうとすると同時に自分の働きで良心の平安を買おうとするからです。ワークホリクにとって休む事は余りにも困難です。追いかけられている気持ちで次から次と新しい働きに走りまわっています。聖書は働きを強調しますが、私達を仕事の奴隷になることを要求しません。主にあって、又主の為でなければ働きは空しいものです。ネヘミヤの勤勉さの背後に主の御手が彼の上にあると言う認識がありました。

パウロは「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と言っています。(1コ15:10)他の人が疑い出したり、手を引いたりする時にも働きをし続けるのは霊的な指導者の特徴です。パウロにとってもネヘミヤにとっても働きは神様より大切なものではありませんでした。何故かというとその働きは神様の内に、又神様の為に行われたからです。働きが自分自身の栄光の為になるならば、それは偶像に変わります。

問題に早期着手
祈りは働きの一部です。ネヘミヤの働きに色々の面がありました。祈り、管理、簿記、肉体労働などがありました。指導者の一つとても大切な働きは問題点を逸早く把握して、それを取り除く対策を立てる事です。困難にぶつかると私達はそれらを先ず軽視する傾向があります。問題を取り扱う事は決して楽しい事ではありませんから、だから好きな仕事をする所に逃げて、問題を忘れようとする所が誰にでもあります。

ところで、もし問題に十分早い内に着手しないならば、時間と共に膨らみ、解決が始めよりはるかに困難になりがちです。エルサレムの城壁の建設の難問になったのは以前の城壁の後から残った凄い砂と砂利の量でした。それは建設が進むにつれて増える一方でした。砂利を取り除く作業は疲れをさせて、又そのために文句を言う人が出はじめました。(4:10) しかし、ネヘミヤとその僕達は諦めないで仕事を夜遅くまで続けました。(4:21)

私達の働きの邪魔になる砂利は色々の形で現れて来ます。先ず出発の困難があります。よい決断にも係わらず怠ける心が起き上がるかもしれません。自分の心が傷つけれる恐れか他の人の怠ける姿勢が私達を麻痺させる場合があります。仕事の量が多くて、不信仰に侵されるケースもあります。失望と諦めが生まれる時もあります。又幻を失う場合もあります。与えられた仕事に適していない気持ちも起こったり、奉仕が嫌いになる砂利もあります。その時に決定的な事は神様があなたと共におられる事を信じる事です。聖霊様はあなたにはっきりした目標を与えようとしておられます。感情に反してでも働きに出てください。その内にあなたが与えられた仕事が出来るようになり、楽しくなります。あなたの仕事が「芸術」になるように専任して下さい。やる気の無い仕事は間違いなく嫌になります。

ネヘミヤ達が諦めないで頑張った結果エルサレムの城壁は52日間で完成しました。反対した人々の嘲笑いや軽蔑にも係わらず目標が達成されました。

しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。(4:9)

向かい風
福音伝道は始めから2千年も反対風と多くの危険の中に行われて来ました。城壁の工事が進むにつれて、民の敵の態度は嘲笑いと軽蔑から次第に積極的な憎しみに変りました。特に城壁は半分の高さになって建てる人々が励まされた時に(4:6)、敵の態度がいっそう攻撃的に変わりました。ネヘミヤはその態度に含まれる脅威を軽んじないで、同じような場面に置かれている総ての伝道者達と同様に祈りのうちに神様の方に向かいました。民と共に祈って、又無防備で圧倒されないように見張りを置きました。祈る事即ち神様に頼る事と人間的な予防策は互いに矛盾するものではありません。祈りを怠って、自分で出来る姿勢は愚かで、高ぶりです。人間的な用心と予防策を怠るのは神様を試みる、怠けてる態度です。福音伝道においての正しい姿勢は神様を信頼しながら、一生懸命に努力する事です。バランスを失ったら、良い結果が出ません。

試練
困難にぶつかると私達の信仰が試されます。圧力の下で打ちひしがれる指導者もあります。勇気を失って伝道の一線から退けます。ある人々は防衛壁を作って、その中から恨みに満ちた、復讐の矢を打ちます。ネヘミヤもパウロも違っていました。その人生の最後の最後まで敵と戦いながら失望はしませんでした。パウロはそれをこう描写します:「五旬節まではエペソに滞在するつもりです。というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。」(1コリント16:89

外側からの反対
ネヘミヤの敵の中にサマリヤの総督サヌバラテ、トビヤ、アラブ人、アモン人、アシュドデ人などがいました。ユダヤ人の一部は彼らと結婚や商売関係でかれらと結ばれていて、彼らの利益はユダヤ人の敵と同じでした。ネヘミヤが主とスサンから来た時に王様からの通る許可を持っていたから通過させてエルサレムに行かせる以外はしかたが無かったのです。しかしエルサレムが防衛可能な状態に回復させるのは彼らの内に妬みや自分の影響力の低下に対する心配を起こしました。ネヘミヤがユダヤ人に歓迎されたと聞くと、トビヤ、ゲシェムもネヘミヤを会いに行きました。(2:19) そしてユダヤ人を軽蔑しました:
「おまえたちのしているこのことは何だ。おまえたちは王に反逆しようとしているのか。」
自分がやろうとする事で人を責めるのは余りにも普通です。実は、サヌバラテ自身の行為は王様の命令に反するものでした。

戦線をはっきりさせる
神様の働きに対する反対の背後には人間的な力より強いものがあります。反対は神様の働きをだいなしにしようとする暗闇の世界から襲って来ます。当然クリスチャン達の罪や肉的な行為も部分的に反対の対象になるでしょう。ネヘミヤの経験した反対の後ろには悪魔がありました。ですから、彼らの軽蔑に対するネヘミヤの返事は「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。」と言う事でした。(2:20) それと同時に反対者達は城壁の建設に何の関係も無いとはっきりさせました。彼らは神様の僕ではなかったから、彼らの非難も助けも要らないと言いました。神様の側と悪魔の側との戦線をはっきりしたからこそ戦いも起こりました。神様の国とこの世との境界線は明確に引かなければなりません。

反対は憤慨とあざけりで始まりました。(4:13) そして敵達は混乱を起こそうと陰謀を企てました。(4:711) 次にネヘミヤを相談にくるように誘ったと言う形の殺人計画が出ました。(6:57) 2ヶ月間の働きが進めば進むほど反対が強くなりました。次にネヘミヤを侮辱する公の手紙が送られました。その中にネヘミヤが謀反を起こそうと言う控訴が書いてありました。(6:57)次にネヘミヤを脅かそうとする企てでした。(6:1013) 敵の方法は今現在もいわゆる心理学的な戦略に使われている働きかけ方法です。その目的は建てる人の内に恐れと恐怖感を呼び起こして、働きを中断させようとするものでした。ネヘミヤの対策は敵の企みを明らかにして、勇気と建設の働きの続けられる事を保つ事でした。(4:96:913

反対にぶつかると先ずそれはどこから出てくるかを問わなければなりません。反対する人や組織がなんであっても神様から来るか悪魔からくるかを考えるべきなのです。神様を無視して、高ぶりの余りで神様を汚す人だけは神様から蔑まれるのです。しかし神様はそのもっとも愚かな僕さえ軽蔑するお方ではありません。私達の間違いを指摘して、悔い改めを迫るかも知れませんが、決して私達を侮らないのです。

侮りと祈り
軽蔑や侮りや嫌がらせやあざけり(4:13)は軽いものではありません。総督サヌバラテ一行は権威ぶった風景でした。彼らは建設に取り掛かった人々に十分聞こえる距離から侮っていました。聞くほうに分裂が起こる事が狙いでした。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。」建設にかかったユダヤ人は余りにもよくその惨めな状態を知っていたから嘲りにそれなりの効果があったのです。言葉で心に如何に痛い傷をつける事が出来るのか軽視すべきではありません。イエス様が十字架の上で受けられた嘲りこそとても痛い経験でした。

「いったい何をしているのか。」と言う質問でサヌバラテは働きがいかに無意味かと言う気持ちを彼らにさせようとしました。それも巧みな問いでした。砂利を取り除く作業で彼らはもう既にがっかりして来たからです。(4:34) その言葉は痛い所にあたりました。

三番目の刺は「あれを修復して、いけにえをささげようとするのか」と言う質問に入っていました。民は神様を信じていると言っているのですが、その神様がこの悲惨な状態をさせたのではありませんか。 「そんな神様にいけにえを奉げるのは一体何の役に立つでしょうか。」民に疑いの種を蒔いて、神様がよい方である事にたいする不信仰を起こそうとしました。「焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」一年の一番熱い時期でした。働きは重かったのです。サヌバラテは彼らの使っている材料でなんの良い物も出来そうもないと仄めかしました。

もし私達は嘘と真実が適当に交じったあざけりを聞こうとするならば、恐れや落胆や虚無感に陥ることがよくあります。しかし、もし私達はそのあざけりにたいして耳を防いで、目を神様の約束の方に向けて、自分の弱さを知りながらも与えられた働きを続けるならば、色々の意味で欠けている私達を主が用いる事が出来ます。

ネヘミヤのあざけりに対する反応は祈りでした。それに、それは怒った気持ちの祈りでした。「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」(4:45) ネヘミヤはその怒りで一杯の心をありのままに主に打ち明けました。本当の自分よりよくて敬虔な顔をしようともしませんでした。そして、建設が続きました。怒りは働く力になりました。怒りは建設的な方向に向けるならば、役に立つ力になります。目標を目指す働きの原動力になり得るものです。城壁が半分の高さになった段階で新しい希望が沸いて来ました。(4:6)

見張り
奇襲攻撃の脅威が起こりました。(4:89) もし攻撃が成功したら、王様に対する謀反を消しただけと、敵は簡単に王様の前で説明出来ると判断したからです。ネヘミヤはこの驚異に逸早く反応しました。先ず祈って、そして見張りを配置しました。働き人の武器の状態をチェックして、人々の恐れにたいして彼自身の神様を個人的に知る確信から出た励ましを与えました:

「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(4:14)

この脅威に直面した時にネヘミヤは城壁建設を一時的に中断させて、自分の方から驚異的な反攻撃に出る処置をとろうともしなかったのです。見張りをおいて、城壁の建設を続けました。敵がもはやユダヤ人を驚異的に襲う事が出来ないと分かった時に危険は過ぎ去りました。しかし、見張りはその働きを続けました。又皆は武器を持ちながら働きました。

ネヘミヤの目標は城壁の完成でした。だから、状況がどう変わってもその目的から目を放さなかったのです。私達の使命は福音を語る事です。私達の外面的な環境や内面的な状況がどう変わってもこの目標から退けてはいけません。

私は十分考えたうえで、おもだった者たちや代表者たちを非難して言った。(5:7)

内からの圧力
今度新しい問題が建設にかかっているユダヤ人の内から起こりました。福音伝道の一番大きな生涯は歴史が始まって以来外側ではなく、内側から起こって来ました。民の中の金持ちの人々は借金をしなければならなかった貧乏な人々か高い利子をとって、重い税金の支払いでもう既に困り果てていた経済的に弱い人々は窮地的な立場に追い込まれました。

金持ちの人々を戒める前にネヘミヤはこの問題を自分の頭の中に思い巡らして考えていきました。その結果他の人に手本を与えるように決めました。それはただ利子だけを取らないと言う事だけではなく、自分がエルサレムに任命された総督として当然受けるべき報酬も断るまで至りました。ネヘミヤの見本は早い結果をもたらせました。他の金持ちも同じ事に賛成しました。それで、民は余計な重荷から開放されて、快く働きつづける事が出来ました。

このネヘミヤの行為の中に福音伝道において二つの大切な原則が明らかになります:

1 指導者自身が個人的な生活や働きにおいて正しい道を歩む事が仲間の内に起こる不正や問題を扱う事の大前提です。他の人を戒める前に先ず自分自身を吟味しなさい。

2 それと同様に大切なポイントは自分の個人的な生活や働きにおいて正直で正しい生き方では未だ不十分です。仲間の中に不正を行っている人々を戒める勇気も問われます。さもなければ働く共同体はばらばらになって、福音伝道が進まなくなります。

妬み
主の働きが自分以外の人を通して進んでいる事を喜ぶ事の出来ない人が案外います。他の人の成功は彼らにとって損のように感じられます。妬みは外から反対する人には限りません。神様の民の中からも出て来ます。リバイバルの歴史を辿ってみると、案外リバイバルの反対者の多くは教会の指導者層にあります。内側から来る反対は場合によって積極的に、場合によって消極的に行われます。後者の場合に主の働きを熱心にする人々が見事に無視されます。消極的な反対は時間と共に爆発して、避けられない衝突に至る場合も多いです。

経済管理
ネヘミヤ記5章の対立はお金や人々や売買に関するものでした。経済的な事柄は霊的な働きの中に慎重に扱うべき分野です。お金に関する働きは福音伝道にも大切な分野です。聖書的なメッセージは新しい霊的な命と生き方を生みます。愛の行為を生みます。愛は具体的なものですからお金もそれを現す手段に必ずなります。愛は労働者の働く条件や奴隷制度や借金で困っている人々の問題などに必ず関ります。この章の中には社会問題に関るクリスチャンに多くのヒントがあります。新約聖書のピレモン書もこれらの事柄に触れます。

文句
しかしこの章のポイントはネヘミヤがどのようにユダヤ人自身の中から起こった反対を扱ったかと言う所にあります。その主な由来はある指導者達が城壁の建設に参加したくない所にありました。(3:5) 部分的にその理由は怠ける態度にあったと言えるでしょう。しかし、それだけではありませんでした。彼らはトビヤやその外の影響力のある外部の人々に出来るだけよい関係を保ちたかったのです。結婚や商売関係で親しくなっていたからです。

一般の人々が城壁建設で一生懸命に働きながらも税金も払わなければならなかったし、食べ物も手に入れなければなりませんでした。負担は大きすぎて、自分の土地を売ったり、又借金の担保として娘達を奴隷に渡さなければならなかった状態をこの金持達は貪欲を募らせて、自分の益に利用しました。結果として激しい文句が出てきました。ネヘミヤはこの問題に逸早く手を打たなければなりませんでした。

使徒の働きの6章にも出てくるように初代教会の中にも真剣な経済的な問題が起きました。それに早く真剣に取り組まなければならなかったのです。ネヘミヤの例を見ても、使徒の働きの例を見ても、聖霊様の導きの下で問題を扱ったならば、解決もあります。問題を軽視する事で解決はなく、雪だるまの様に膨らんでいくだけです。

清い怒り
民の文句のネヘミヤの内に起こした強い憤りは彼を行動に導きました。指導者達の行為を戒めるのは決して易しい事ではありませんでした。人間的に考えると彼は自分の立場を失う恐れが十分ありました。しかし、ネヘミヤにとって働きを完成するのは自分の評判や成功より大切なものでした。ネヘミヤのやり方は内面的な反対を取り扱う効果的な方法として見事な例です。

ネヘミヤの憤りは清いものでした。総てのクリスチャンの内には、罪が犯されて神様の御名が汚される時に、怒りが起こるべきです。正しい怒りは私達を問題解決に導きます。怒りは自分自身に向けてぐるぐる回して行けば、罪深い恨みになります。又爆発させて他の人にぶつけると人間関係に意味の無いひび割れを起こします。怒りは問題解決の為に使うべきです。怒りそのものは罪ではありません。問題解決の為の感情的なエネルギーです。しかし、それ以外の方向に向けたら、罪に変わりやすいものです。清い怒りがあるからと言って、どんな行為をとってもいいと言うわけではありません。怒りを感じながらもネヘミヤは問題を考え出して、問題解決の道を深く探って行きました。行動する前に考えた方がいいです。一番大切なポイントをつかんで、勇気を持ってストレートに問題のある人々に近づいて、霊的で知恵のあるやり方で行動しました。

正しい順序
先ず不正を働いて問題を起こした人々の所に言って、彼らと個人的に話し合いました。彼は厳しく正義を保つ線を守って、不正にたいするもっともらしい弁明も認めようともしなかったのです。考えている事をそのままに指導者達に言いました。霊的な指導者があくまでも一環性を保たなければなりません。公の発言と個人的な話しが違ってはいけません。

しかし、公の問題は公にも扱わなければなりません。(この頃はクリスチャン達が公の場で罪を犯して、神様の御言葉の指摘によって悔い改めて、個人的なカウンセリングや赦しの宣言を受けて、それで問題が終わったかと思いがちですが、公の罪に本人以外の人も関っていますから、本人が本当に悔い改めたならば、公でそれもはっきりしなければなりません。神様の赦しが必要ですが人々の赦しも必要ですから。) ですから、ネヘミヤは民を集めて、不正を正す公の場をつくりました。既に個人的に非難した指導者をもう一度公にも非難しました。神様と敵対する諸民族の前に相応しい行為を求めました。人を嫌な立場にさせるのは決して楽しみではありませんが、悪をその根から取り除く手段として必要でした。

模範
ネヘミヤは他の人を戒める事に留まらなくて、自分自身がその時まで売買や経済活動をやって来たかを皆の前に説明して、そして彼から借金を受けた人々の借金も利子も全部免除した事で模範を示しました。彼自身が他の指導者達と同じやり方を取っていたかどうかはテキストからはっきり出ません。自身公に悔い改めたならその点において手本を与えたのです。霊的な指導者達も罪人ですから、他の人に適用する基準を自分自身に対して適用しなければなりません。さもなければ誰も彼らの後について行きませんから。

ネヘミヤは金持達の事をよく知っていたから、公に借金で奴隷になった人々を開放して担保として取られた土地を戻すと言う約束だけでは不十分だと判断しました。実行を怠ったら神様の前に呪われると言う誓いを立てさせました。公の決定は実行しなければならない程固いものにしなければなりません。

貪欲の誘惑
城壁が完成されてからネヘミヤはエルサレムの総督に任命されました。その一期目は12年間でした。王様の代表者として彼には税金を集める権利がありました。支出が多かったにも関らずネヘミヤはこの権利を使わなかったのです。官僚の政治的な立場は公の資金を自分の個人的な利益に使う可能性を与えます。それは今も日本を含めて全世界で見られる現実です。しかし、ネヘミヤは違っていました。神様の為に働いて、苦しい立場の人々を助けようとしました。民が貧乏にならなくて豊かになることを願っていたからです。敵達は彼を正しい方向から迷わせる事は出来ませんでした。しかし、権威も金もそうさせる事は出来ませんでした。彼は羊飼と僕の姿勢を持ったからです。自分のスタッフまで城壁の建設現場に引率しました。

奉仕精神に燃えている、救われたばかりのクリスチャンに自分が何時か人からお金を巧みに得ようとさえする思いは頭に浮かばないと思います。しかし年が進んで、責任も増えて、経験も重なって来た時に自分がもっともっと経済的な酬いも受けなければならない気持ちが案外心に密かに入ってしまいます。貪欲と言う蛇は少しづつ私達の愛を消してしまいます。霊的な働きに一生を捧げる人にたいして私達が豊かにその物質的な必要を満たさなければなりません。彼らがその生活レベルを他の人々より低くしなければならないと言う要求は正しくはありません。しかし、教会歴史を振り返ってみると王様のような贅沢の中に生活して来た指導者達が余りにも多かったのです。今日にもそういう人がいます。経済的な酬いを目的として神様に使えるような状態に絶対にならないように気をつけなければなりません。私達の酬いは天国にあるように。神様はこの地上の歩みに必要なものを与える事が出来ますし、そうして下さる約束もお与えになりました。私達の永遠的な財産は天の御国で待っています。

こうして、城壁は五十二日かかって完成した。(6:15)

危険を伴った難しい城壁建設は完成しました。働きは主のものでした。エルサレムの城壁は主がその民の残った分を律法の「城壁」で守って下さる事の外面的な印でした。律法の役割はイエス・キリスト様が来られる時に与えられる信仰の為に民を守ることでした。

城壁の完成は一人の人即ちネヘミヤが自分を全面的にその民とその働きに捧げた事の産物でした。彼は才能も影響力もあって、その指導力で民に心を一つにする事が出来て、目標達成まで導く事が出来ました。彼は反対の中にあって注意深くて、勇気のある行動をとり、固い忍耐力を発揮しました。反対した人々はあらゆる巧みな陰謀をしたにもかかわらず、その中に仕事を完成まで引っ張って行きました。ネヘミヤの強さは働きが主からのものと言う自覚から出て来ました。神様の働きはどの時代においてもいつもそのような信仰の上に行われています。

指導者が攻撃の的
6章の始めの物語は城壁が完成して、しかし門が未だ出来ていなかった時の事です。外側からの反対は様代りました。「指導者を取り除けば働きも崩れてしまいます」とは今回の攻撃の哲学でした。ネヘミヤ自身が攻撃の的になりました。ストレスが増えました。勝利即ち城壁の完成は新しい問題の原因になりました。未だに自由の無い国々の伝道は長引くストレスの下で行われます。忠実にキリストに従う事は困難を通り抜ける鍵です。

城壁が完成して門だけが未だ足らないと聞いたサヌバラテは攻撃を益々強化しました。戦略を変えて、ネヘミヤに手紙を送ったり、彼と対話を試みて協力的な姿勢を打ち出しました。時たまにこういう誘いは純粋で無駄な対立から建設的な協力伝道に導く糸口になり得るのです。一致を求める自体は望ましいのです、しかしネヘミヤ同様に陰謀的で権力争いの巧みな手段に過ぎない場合もあります。協力願いは暗殺計画を隠す措置に過ぎなかったのですが、ネヘミヤはそれに気がついていました。どんな提案があっても、城壁を完成する必要は変わらないと知っていたから、その誘いに応じませんでした。協議を断りました。

私達の評判
そうすると敵達はネヘミヤの政治的な生命を危うくにする噂を広げはじめました。「あなたはユダヤ人達と謀反を起そうとする」と言う嘘でした。こういう時に弁明的な態度に出やすいのです。他の人々が私達の事をどう思うのか気にするものですから。悪い評判は嫌です。人々の視線を気にしたり、無視される事が恐くて、協力を打ち消す人が出るのを恐れます。危険が恐くて、働きが進まない事が心配です。そんな時に神様の働きよりも自分の評判を弁明してしまう危険があります。私達の判断力が狂うってしまう恐れが十分あります。サヌバラテの広げた噂の狙いはネヘミヤが首都スサンの王様の支援を失なおうとする所にありました。

ネヘミヤは城壁の門を完成させるためにエルサレムに留まって、又公の手紙でサヌバラテの主張を嘘として退けました。脅かされても自分を恐れに任せる事をしなくて、神様から新しい力を祈って、働きを続けました。

噂話し
信仰を持っているクリスチャンの間に牧師や霊的な指導者について傷つける噂話しがよく広がります。だから、霊的な指導者の立場をとろうとしたら、それは噂話しの的になる事をも受け入れる事です。

もし指導者が間違った教えをもって、教会を惑わしたり、明確な罪の中に悔い改めないで生活するなら、群れを守る為にクリスチャンを警告する必要もおこりますが、その時にその間違った教えをはっきり指摘しなければならないし、又は犯している罪も明確に示さなければなりません。そして、それは噂によらないで事実によってそうしなければなりません。又その迷った指導者の益を求めて、悔い改めを責めなければなりません。

残念ながら指導者達についての噂の大部分は根拠の無いもので、妬みや復讐から出るのです。傲慢や他の人を軽蔑する事は噂はなしの背後にあります。無知や偏見や誤解による噂も珍しくはありません。そういう時に先ず間違った噂の究極的な源はサタンにある事を覚えなければなりません。悪魔はクリスチャン達の間にひび割れを起こして、彼らの伝道と交わりを妨げようとしています。間違った情報はたださなければなりませんが、それだけで噂話しが起こしたダメージを取り除く事が出来ない場合がよくあります。だから、自分の弁明は神様に任かせて、働きを続けるべきです。

偽預言者
反対者がとにかくユダヤ人の目の前に指導者のネヘミヤを何とかして汚そうとした陰謀の中でもっとも卑しいものはシェマヤと言う預言者を雇って、ネヘミヤに偽預言を与えようとした事です。シェマヤは神様からメッセージのようにネヘミヤに対する暗殺計画について語って、神殿に逃げるようにアドバイスしました。しかし、ネヘミヤは偽預言と本当の預言の区別が分かりました。聖書を知ったからです。神殿に祭司とレビ人以外が入ってはいけない事が聖書に書いてあるからです。聖書と矛盾する預言は偽預言です。ネヘミヤはシェマヤにこう答えました:

「私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂にはいって生きながらえようか。私ははいって行かない。」

祈りの内に又この事も神様に任せて、城壁の門の建設の管理を続けました。

神様が私達に使命を与えてくださるなら、恐れの為に自分を麻痺状態に任せてはいけません。ネヘミヤは殉教者の志をもっていました。死は神様から頂いた使命を放棄するより小さい問題です。パウロは自分の働きを次のように描写しました:

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(4:98)

こうしてとうとう城壁が完成しました。ここでハッピーエンドになったと言えたらいいのですが、ネヘミヤの経験する困難と戦いはこれで終わった訳ではなかったのです。城壁は民を神様との正しい関係に戻す作業の中に一番目のステップに過ぎませんでした。ネヘミヤの使命は祭司エズラと一緒に国民の霊的な一新を通して民を神様の前に悔い改めと聖書的な信仰による正しい歩みに戻す事でした。この国民的な一新の影響は400年後でも感じられるものになりました。

ネヘミヤに対する反対はもっと静かな形に変わりましたが、同じ致命的な目的を保ちました。これから敵よりも友人の方からやって来ました。悪知恵のトビヤは戦略を変えて、今度ユダヤ人の共同体の影響力のある一員になる作戦に出ました。ネヘミヤをもう追い出す事が出来ないと分かって、結婚関係でユダヤ人の指導部でネヘミヤと同じぐらいの立場になろうとしました。

これは、ハナヌヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからである。(7:2)

指導責任分担
7章の始めにネヘミヤは城壁が完成してからエルサレムの指導にハナヌヤと言う人を任命しました。城壁が出来たからと言ってもう安心だと言う訳にはいきませんでした。町は依然として敵意を持っている諸民に囲まれていました。町を守る為の安全対策をずっと続ける必要がありました。

危険な所に行われる伝道にとってもっとも破壊的な態度は用心を怠ることです。それは決して勇気ではありません。勇気は起こりうる攻撃に対する準備に現れます。

町の指導者として選ばれた人は責任感の強い神様を恐れかしこむ男でした。与えられた使命を忠実にやり通す心は神様を敬う事の産物でした。この世の働きをなおざりにする者は神様を恐れかしこむ人ではありません。神様を知る知識は責任感を生み、責任感は勇気を生み、勇気は用心深い行為を生みます。

霊的な指導者の一つ大切な使命は教会に外側からも内側からも来る驚異に対して群れの安全を保つ事の出来るリーダーを選び、牧会者に任命する事です。霊的な指導者が他の所に移る時に残された群れに新しい、聖書的な資格に該当する牧会者があることを保証しなければなりません。(使徒の働き6章を参照に)

あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。(8:10)

律法の城壁
ネヘミヤの目に見える建設作業が終わりましたが、ユダヤの民が神様の律法を深く理解しそれに従って生きるようにさせる霊的な使命が続きました。祭司エズラが登場して、民は心を一つにしてモーセの律法の教えを聞きに集まりました。読まれた律法が徹底的に理解されるために群集はグループに分けられました。学びの結果として民は深い罪意識に覆われました。神様の律法をどれ程深く破って来たか、又神様はその掟を破る人にたいしてどれほど厳しく罰せられるか分かって来たからです。

罪責感によって深い悲しみに陥った民にネヘミヤはこう言いました:
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(新協同訳8:10) 神様の律法のもっとも深い意味をその言葉で言い表そうとしたからです。神様の喜びは人々が悔い改めて神様の御心を快く行う所にあります。その御心は律法の中に啓示されています。喜んで律法を守る総ての人を神様が喜ばれるのです。神様の御心に従う人だけが力強いのです。詩編11954節も同じ事を言っています:
「あなたのおきては、私の歌となりました。」

聖霊様が主イエス・キリスト様の血潮によって律法の前で自分の罪を悲しんで告白する人の心を罪から清めて下さると、同じ律法がその人の心に刻み込まれます。聖霊によって喜んで律法を守るようになるためです。

エレミヤ書31:3134に書いてある通りです:
「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

リバイバル
リバイバルはクリスチャンの関心事の一つです。特にリバイバルの中に信仰に入った人々は新しいリバイバルを慕い求める事を止められません。リバイバル以下の事で満足できないからです。リバイバルは神様の御業です。福音宣教はリバイバルの無くてはならない条件であっても人間はそれを起こす事は出来ません。

ネヘミヤ章の8章はリバイバル勃発の記録です。どういう状況の中にリバイバルが起こりうるかについてヒントを与えます。特に注目すべき事はリバイバルの前に生きた霊的な指導者達の個人的な信仰生活やそこから沸き上がった霊的な一新に対する求めなのです。バビロンから帰った釈放された捕虜達の小さくて惨めな状態の中にいた群れからリバイバルの一新によって今2500年後にも影響を続けているユダヤ民族が生まれました。神殿の建設と律法を教えたエズラの活動とネヘミヤの霊的な民族指導者の働きは皆リバイバルの為に準備的な基礎固めのようなものでした。

リバイバルは急に勃発しました。民は自発的に水の門に集まって、モーセの書が読まれるように頼みました。誰も彼らを集めた訳ではなかったのです。聖霊様の招きによって全く自発的に集まって来ました。聖霊様はエズラとネヘミヤの模範を用いたかも知れません。彼らを見て民も霊的な飢え渇きを覚えて、もっと知りたい気持ちになったかもしれません。エズラとネヘミヤは互いに色々の点において違っていいましたが、共通点は両方共は心から神様とその御言葉に従う事に自分自身を明け渡した所でした。神様の御言葉を教えただけではなくその御言葉によって生かされていたのです。ネヘミヤの城壁の建設作業も神様の力と御業の大きな証しになりました。これらの事柄を通して聖霊様は民の中に神様の御言葉を知る飢え渇きを起こして下さいました。

御言葉の教え方
集まった群集は小グループに分けられたのは皆が必ず読まれた事が分かったと確認出来る為でした。エズラはモーセ書を読んで、レビ人達は読まれた内容を説明して、聞いている人びとの実際生活に適用しました。律法が読まれた結果余りにも激しい感情的な反応が起こりました。群集は嘆いて、喚いて、泣き始めました。

理解と悔い改め
感情的な嵐や泣き悲しむ事は色々の方法で作る事が出来ます。集会の雰囲気に高い期待感をつけたり、適当な音楽を使たりして、悲しい例話を語ったりして人々を泣かせるのはそれほどの技術ではありません。しかし、そういう人工的な感情に訴える事とリバイバルは何の関係もありません。悔い改めの涙は必ずリバイバルの付き物ですから、説教者にとって無意識の内でもほとんどどんな方法でも涙を招く誘惑が大きいのです。

しかし、エルサレムの集会の涙は人を巧みに操る技術で生まれた訳ではありませんでした。人々が読まれた神様の御言葉の意味が分かったから泣き出しました。聖霊様が人間の理解を開くとその結果は泣き喚く事です。本当のリバイバル、即ち人間の心と生き方を変えるリバイバルは聖霊様が人の心を開いて、罪にたいする律法に掲示されている裁きの恐ろしさと福音の素晴らしい内容を理解させて下さる時に初めて起こります。

本当の変化は決まった順序に起こります。先ず理解、そして心の良心、その次に感情と意志の変化です。神様の御言葉の理解は良心を起します。責める良心は苦しい感情、赦された良心は喜びを生みます。感情は意志の方向を変えて、その結果として生き方に変化が現れます。

民は聖霊の働きによって、その罪と怠った事が余りにも大きかった事に気がつきました。それは本当の悔い改めの悲しみでした。自己憐憫ではありませんでした。自己憐憫は高ぶりの罪であり、そこから開放の道は純粋な悔い改めの悲しみと赦される喜びです。民の反応が余りにも強くて、ネヘミヤとエズラは心配になって、人々に福音による慰めの言葉を述べはじめました:
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

純粋な罪意識は喜びから遠く離れたものではありません。何故かというとそれは人の救いを求めておられる哀れみ深い神様御自身が起した心の状態だからです。間もなく民は喜び出して、大きなお祝いが始まりました。

生き方の変化
純粋なリバイバルの結果として生き方の変化が現れて、それが社会生活の一新まで及びます。単なる宗教的な熱心には社会を変える力がありません。すぐ起こった影響は大変劇的な事のようには見えませんでした。彼らは仮庵の祭りを守りはじめました。古い習慣に戻るのは昔の泉、即ち聖書の原点に戻る意識的決定の現れでした。御言葉の学びが深まるに伴って、その影響も大きくなりました。

最初の集会から3週間後で徹底的な悔い改めに導いた大会が行われました。(9:13)長い聖書朗読の末に何時間もかかった懺悔と悔い改めの祈りが心を一つにして行われました。それは彼らを祭司達とネヘミヤの厳粛な約束に導きました。モーセの律法を守る約束(10:129)でしたが、早速自分の生活の中の不法を直す決断にもなりました。(10:3039) 聖霊様は深い一新によって心と生き方の変化をもたらして下さいました。

「立ち上がって、とこしえからとこしえまでいますあなたがたの神、主をほめたたえよ。すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名はほむべきかな。」 (9:5)

城壁が完成して、律法は民に朗読され、解釈されて、仮庵の祭りが守られてから、大きな罪の告白が行われました。民は神様の契約の外にいる人々から離れて、謙遜にその罪を認めました。

大変興味深い事にはネヘミヤ記の始めに記録されたネヘミヤ自身の徹底的な罪の告白と9章の民のリバイバルと悔い改めは密接な関係を持っています。今日も福音の伝道の唯一の進む道は同じです。

共同の罪の告白
大変注目すべき事には9章の民の罪の告白は罪を認めると同時にずっと神様への賛美でもありました。始めの部(515)は神様御自身とその偉大さへの賛美で(56)、アブラハムを通して民を設けられた事への感謝で(78)、民をエジプトの奴隷状態から開放された事への賛美で(911)、又民をずっと導いておられる事への感謝です(1215)

真中の部(1631)には神様の続く恵みと民の繰り返し繰り返し犯した罪は対照されます。罪の告白は神様がどれ程繰り返して赦して下さったかを謙遜に認める事でもありました。

祈りの終わりに(3238)民は神様の恵みがこれからも続く事を願って、助けを求めて、神様との契約関係に改めて戻って留まる約束で結ばれます。この祈りは私達にとって懺悔と罪の告白の中に神様にどのように近づくべきかの手本です。主の栄光とその恵みの深さを思い巡らしながら、私達の心が強められます。栄光と恵みに満ち満ちた神様を仰ぎ見る所こそ悔い改めへの道です。

こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。(10:39)

契約
10章は具体的な神様との契約に就いてです。祭司達、レビ人達、指導者達は民を代表して押印して、民はそれを賛成しました。一般的に約束の内容は「神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行なう」と言う誓いでした。以前特に守らなかった事についての特別な約束もしました。即ち異邦人との結婚を辞める事、安息日を守る事、神殿を守る事、十一献金をする事を約束しました。

ネヘミヤは特に神殿を守る事に重点を置いたようです。それは国民の生存とその使命を全うする第一条件は神様との関係を保つ事に結ばれていると分かったからです。神殿は神様との関係を保つための場所です:
「私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」

礼拝は礼拝者自身にとって非常に大切です。ある意味で「私達の礼拝は神様に何にも与える事はない」と言えます。しかし別の意味では神様を礼拝しない事で神様からその受けるべき賛美と感謝を奪うばかりではなく、私達自身が霊的に貧しくなって、力を失って、道徳的な生き方も堕落して行く所で神様は私達を通してその働きを進める事が出来なくなります。

教会が空っぽになった国民は道徳的に崩れて行きます。だから礼拝の大切さを決して忘れるべきではありません。

すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。(11:2)

励ましをする望見者達
バビロンから帰って来た民はわずか5万人に過ぎませんでした。ユダヤ地方のあちらこちらに住み着いていました。エルサレムに残ったのは一部分に過ぎませんでした。そこは特に危ない所だったからです。敵がやってきたら、先ずエルサレムが第一に攻撃の的になったからです。しかし、町を防衛するために十分な人口が必要でしたから、くじを引いて、10人の内に一人がエルサレムに住むように選ばれました。その外にボランティアのグループも町に残りました。他の人々はエルサレムに残る人々を祝福しました。

こういう事は一種の自己吟味を要請します。勇士を誉めるのは難しくもなくて、貴いとも言えないでしょう。神様の目には大きな働きは幸いに人間の賛美によるものではありません。神様は必ずその勇士を見つけられます。しかし彼らの酬いは彼らの業そのものにあって、いざとなると助けようともしない人々の誉まれにはありません。

伝道や海外伝道の大切さに就いて多くの人が話したり、演説をしたりしますが、いざとなると伝道の働きの泥沼の中に頑張っている働き人の為に、一体どれほど執り成しが行われるのか、どれほど助けの手を伸ばすクリスチャンがあるでしょうか。

エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。(12:43)

主にある喜び
エルサレムの城壁の奉献式は三つの段階で進みました。歌と演奏で神様を賛美する行列が先ず神殿に入りました。律法が朗読されて、そして混血の者をみな、イスラエルから取り分けた。イスラエルの民が今は人数として僅かでありながらも、以前の黄金時代よりも霊的と民族として統一された事はネヘミヤと他の霊的な指導者にとって何ともいえない喜びでした。彼らは命の源である神様の元に帰っていたからです。彼らの歓声は主にある本当の喜びの声でした。その主にある喜びこそ彼らの力になっていましたから。

神様の教会の力はその人数にも、その豊かさにもありません。神様との関係にあります。福音の広がり進む唯一の道は主にある喜びにあります。

エルサレムに帰って来たからである。そのとき、エルヤシブがトビヤのために行なった悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。(13:7)

進み行く一新
ネヘミヤの始めのエルサレム滞在は12年間でした。そして以前の働きに首都スサンの王室に戻りました。後で二度目の任期の為にエルサレムに帰りました。ネヘミヤの行為は前と変わらない主にたいする忠実さと固い信仰に就いて物語っています。彼は物事を神様の御心が行われるかどうかと言う視点から見たから、騙される事はあり得ませんでした。

干潮
ネヘミヤはエルサレムに帰るとよく始まった一新運動が止まった事にぶつかりました。厳粛にされた誓いも忘れられていました。留守の間に城壁の建設の時に反対していたトビヤはその結婚関係を利用してユダヤ人ではないのにユダヤ人であるかのような顔をして、エルサレムで影響力を増やして来て、弱々しい祭司は妥協を計って、神殿にある大切な部屋を彼の為の個人的な住まいとしてに用意していました。神殿がこの事で汚されていました。十分の一献金も怠られていた結果レビ人と神殿で演奏奉仕をして来た人々の給料が払われていない状態になっていました。安息日に又商売が盛んになっていて、民族間結婚で又ヘブライ文化が驚異の下になっていました。

しかし年をとったネヘミヤの行動力と勇気は劣っていませんでした。忠実に神様の御心の線を保って来ました。留守の間に民の生き方に何が狂って来たかを見て、力一杯で不正と問題点を直す作業に取り掛かりました。逸早くトビヤの家具を神殿から外に投げ込んで、その部屋を神様の御用に相応しい状態に清めました。後でイエス様がエルサレムの神殿を清められた出来事の前触れのような行為でした。

安息日が守られていない事や多民族間結婚問題にも強い手で取り組みました。民は以前の罪に戻っていましたが、主の御心を第一にしたネヘミヤは安っぽい妥協の道に進まなくて、もう一度戦って民を悔い改めに導こうとしました。主の道に留まる人は状況を正しく把握して、悪に対する戦いはソフトな手段で戦いぬけない事が分かります。神を恐れかしこむ事は悪を憎む事です。

教会規律 ・力への道
臆病の為に嫌な仕事を避けようとする事は霊的な指導者の憤りより破壊的な力です。教会はだるくなって、色々やらなくてもよい事で忙しくなって、自分の中にある汚い所を直す力を失っているのではないでしょうか。教会規律は必要です。それは和解を求める愛の内に行わなければなりませんが、絶対に必要です。しかし一般的に言えばほとんど見当たらないのです。(使徒の働きの5章のアナニヤとサピラに対する死刑と言う形の神様御自身が実行なさった規律の結果として大きなリバイバルが起こりました。)

十分の一献金
神殿の維持の為の十分の一献金問題でとったネヘミヤの行為は必ずしも彼の人気を高めませんでした。時間と伴って物事の優先順序が簡単に変わってしまいます。特にお金に関する事柄の場合にそうです。ネヘミヤは献金を怠った人々を非難して、制度をもう一度軌道に乗せて、又経済の管理に信用出来る人々を任命しました。人気があっても無くても物事の優先順序は神様の御心と合わせなければなりません。献金を奉げるのは礼拝の一部です。愛の現れです。聖書に書いてある通りお金を愛する事があらゆる悪の源である事を教会の中で大胆に伝える預言者が今も必要です。

安息日に又人々が商売をするようになった事も富の力の現れででした。貪欲は本当に巧みに広がる罪です。昔に住んでいた心に戻りやすい罪です。私達は常に「人間はパンだけで生きるのでは無い」事を繰り返して自分に聞かせなければなりません。ネヘミヤは安息日に城壁の外で商売が出来る事を待っていたツロから来た商人を暴力で脅かさなければならないほどでした。ネヘミヤは一貫して戦いぬきました。神の国には繰り返して同じ戦を戦わなければなりません。

結婚問題
支配的な間違った性に関する風習に向かって戦う事も決して容易な事では無かったのです。結婚に関する事で人々は余り神様の御心を聞こうともしません。今日もクリスチャンも例外ではありません。ユダヤ人の男性はただ信仰を持たない女性だけではなく、禁じられた他国民の女性を娶っていました。混血結婚は国民的な統一性(アイデンティティー)に脅威を与えるだけではなく、民の歴史の中に偶像礼拝がそのルートで入り込んで来た事は繰り返して起こっていたからです。ネヘミヤはそう言う結婚をした人々を攻撃して、彼らを呪って、何人かを叩いたり、ひげを引っ張ったりしました。又親達に民族間結婚を辞めるような誓いを立てさせました。

最後まで
福音伝道において激しい戦いを通して得た勝利の後にも立って、義を保たなければならない事がもっとも大切な事の一つです。伝道者の働きの価値はその終わりによって計られます。パウロはその道のりが終わろうとした時にこう書きました:
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(2テモ4:78)

ネヘミヤ記は祈りで始まり、祈りに終わります。ネヘミヤもパウロと同様に最後の祈りの中にその歩んだ道とやって来た働きを顧みます。神様からその歩みと働きにたいする酬いを受けると知りながらも自分の救いが只主の大きな慈しみと哀れみにしかありません。(13:22

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